
皆さんの周りには、ひたすら質問ばかり繰り返す人はいませんか?
- 何度も質問を繰り返し、相手が答えられないと勝ち誇る
- 答えられない二者択一を迫ってくる
- 論点をずらして、意図した結論に持っていく
どこの社会にも1人や2人いるのではないでしょうか?
そんな相手と話すとき、皆さんはどう対応されていますか?
私も会社で、理詰めで質問を何度も繰り返す人との会話が苦手でした。
何回も質問をされ、すぐに相手の思い通りの答えが言えなければ、
「そんなことも知らないのか」
そう言われる毎日。
頭の中では答えが浮かんでいるのに、次の質問が飛んでくる。
考えを整理する間もなく、新しい質問が重ねられ、さっき浮かんでいた答えさえ消えてしまいます。
会議の後は、
「ああ言えばよかった。」
「あの質問にはこう返せた。」
と、1人反省会を何度も繰り返しました。
そんな時に、議論に強くなる本を探して出会ったのが『レトリックと詭弁』です。
これで頭の回転が遅くても、相手のペースに乗せられずに質問に対して答えられると思い、読み始めました。
ところが本書を読んで気付いたのは、
相手が議論に強かったのは、知識があったからではありません。
議論の主導権を握る「問い」を支配していたからだったのです。
こんにちは。ドムドムです。
読書と本の収集が趣味の、本が大好きな私が、
「面白い!」
「悩みや疑問と向き合えた!」
「新たな知識の扉が開いた!」
と感動したおすすめの本を紹介します。
著者の香西秀信氏は訴えます。
「本書は議論に勝つために書いたのではない。言葉の暴力から読者を守るために書いたのだ。」
本の概要
- タイトル:レトリックと詭弁
- 著者:香西 秀信
- ページ数:202ページ
著者の香西秀信氏は、レトリックや議論を専門とする研究者です。
私は読む前、
「レトリック」は話し方のテクニック、
「詭弁」は屁理屈くらいに思っていました。
しかし本書を読んで、その認識は大きく変わりました。
レトリックも詭弁も、「言葉が人をどう動かすのか」を知り、考える技術
ということです。
この技術は、相手を説得するためにも使えますが、逆に相手を追い詰めるためにも使えます。
そして、その仕組みを知ることは、相手を言い負かすためではなく、自分が不当な言葉に振り回されないための武器にもなるのです。
われわれは、言葉によって、自分の精神を、心を護らなければなりません。
無神経な人間の言葉の暴力に対して、ハリネズミのように武装しましょう。
うっかり触ったときには、針で刺す程度の痛みを与え、滅多なことは言わないように思い知らせてやるのです。
覚えておいてください。
われわれが議論に強くなろうとするのは、人間としての最低限のプライドを保つためです。
(香西秀信. レトリックと詭弁. ちくま文庫, 2025,p.9)
「問い」を出すものが議論を支配する
議論を支配している強い人は誰でしょうか?
- 出席している中で一番上の役職の人
- 声の大きい人
- 威圧感のある怖い人
どれも違います。
議論において最も強いのは、「問い=質問」を支配している人です。
なぜなら、「問い」を出した瞬間から、議論のルールそのものをその人は握っているからです。
役職や声の大きさ、頭の良さは、議論を支配する決定的な要因にはなりません。
問いを握る人が、議論の主導権を握っているのです。

なぜ質問された側は苦しくなるのか
質問を繰り返す側が全てを知り尽くし、相手をコントロールしているように見える一方、答える側が劣勢に見えるのはなぜでしょうか?
それは、問いが持つ構成に隠されています。
問いは、質問する側が「知らないから教えてください」という形をとっています。
そのため、質問された側は「答えなければならない」と感じます。
当たり前だと思われるかもしれませんが、これこそ問いを出すものが主導権を握れる基本なのです。
議論の場においては、質問に答えられずに沈黙するというのは、なんの議論も反論も見いだせないか、あるいは問題が議論の余地がないことの証拠とみなされます。
また、沈黙することが同意と解釈されることもあるため、ほとんどの人が苦し紛れであっても反論をしようとするのです。
私も、「質問にはすぐに的確に答えなければならない」という強迫観念があり、沈黙するぐらいなら、適当に返答してしまい、その結果さらに質問されるといった悪循環に陥ることがありました。
本書を読んで、問いには答えなければならないといった基本概念を見直すことができました。
なぜ質問する側は有利なのか
質問する側が有利なのは、問いの持つ体制のほかにも理由があると言います。
それが、「問いを構成する言葉は、問う側が自由に選べる」ことです。
例えば、次のような質問を考えてください。
「○○に対して、あなたは賛成ですか?それとも反対ですか?」
一見すると普通の質問です。
しかし、この問いにはすでに罠があるのです。
つまり、「何を答えるか」より前に、「何を答えさせるか」が質問した側によって決められているのです。

本当は「条件付きで賛成」「一部だけ反対」「まだ判断材料が足りない」といった選択肢もあるのに、問いを出した側は「賛成」か「反対」かの二択しか用意していません。
つまり、質問をした時点で、議論の土俵が決められているのです。
問いを構成する言葉を選ぶことで、相手に二者択一を強制したり、相手が答えられない問いを出すこともできるのです。
本書では、このように問いを作る側は、議論を有利に進めるための「土俵」そのものを作れると述べられています。
弁護士が証人に反対尋問をするときには、その答えはあらかじめ分かっている場合か、あるいはその答えがどうでもいい場合のほかは質問してはならない。
彼は、その答えが、事故の依頼者の事件にとって不利となることはあり得ないと確信しない限り、決して質問しなかった。
彼は、自らの体験について、自分はその答えがどのようなものであるかということを知らない場合には、決して質問しなかったと語っている。
(香西秀信. レトリックと詭弁. ちくま文庫, 2025,p.82)
土俵に載せられないためには
ここまで、問いの持つ体制「問いには答えないといけない」「問いを出す側が自由に言葉を選べる」によって、問いを出す側が圧倒的に有利なことが分かりました。
ではどうすればよいのでしょうか?
本書にある「不当予断の問い」という章が、分かりやすかったので例にします。
「君は、Kの、あの下らない議論術の本を読んだのかい?
これまた「はい」か「いいえ」のどちらかを要求する、よくある二者択一の問いです。
しかし、「はい」「いいえ」のどちらを選んでも、Kの本がくだらないと認めることになってしまいます。
では、「私はKの本は下らないと思いません」と答えたらどうなるのでしょうか?
一見、うまく切り返したように見えますが、著者曰く、最悪の結果を招きます。
この瞬間に、「Kの本が下らなくない理由」を説明する責任が、自分に移ってしまいます。
待ってましたとばかりに相手は、けちをつけたり、上げ足を取ってあなたはどんどん不利になってしまいます。
議論においては攻めるよりも守る方が難しいのです。
では、どうすればよかったのか?
Kの本に下らないという評価を与えたのは、相手側なのです。
「Kの本が下らないのはなぜですか?」と聞き返せば、答えるのは相手の責任です。
議論において絶対にやってはいけないミスは、相手側に答える責任があるのに、勘違いしてこちらがこれを引き受けてしまうことだと言います。
この言葉を聞いて、今までの価値観が一変しました。
私は今まで、
「質問されたら答える。」
それこそが礼儀であり、社会人として正しいことだと思っていました。
しかし本書を読んで気づいたのは、
「質問に答えること」と
「相手の土俵に乗ること」は、まったく別の話だったのです。
できる先輩が、答える必要がないと判断した質問には「〇〇ということですか?」と、質問されたことをそのまま相手に返すと、多くの場合で相手が答えると言っていたことを思いだしました。
当時は、意味が分かりませんでしたが、本書を読んで初めて「相手の土俵に乗らず、自分を守るため」だったのだと気づくことができました。
世の中には、議論をより良くするために質問する人もいれば、相手を追い詰めるために質問する人もいます。
だからこそ、問いの仕組みを知ることは、相手を言い負かすためではなく、自分の心を守るために必要なのだと思いました。
問いを疑う勇気
最後に、本書に登場する面白い例えを一つ。
小学校の算数では、「大工4人で3カ月かかる家を6人で建てると何カ月かかるか?」という問題がよくあるが、計算して2カ月で立つという答えに誰も疑問を抱かない。
しかし同じ論法なら、12人なら1カ月、360人なら1日、3110万4千人なら1秒で家が建つという勘定になる。
ここまでくると誰でもおかしいと思うが、論法としてはおかしくはない。
この例が教えてくれるのは、問いの前提を鵜吞みにしてはいけない、ということです。
一見もっともらしい質問であっても、その前提自体が誤っていることがあります。

冒頭で書いたように、
私は「質問攻めをする人」に苦手意識を持っていました。
しかし今は、
「問いには力がある」と知ったことで、以前ほど必要以上に恐れなくなりました。
問いの仕組みを知ることは、
議論に勝つためではなく、
自分の心を守るためだったのです。
